2017年度 連続講座 第2回 なぜ、この場所に?
フィールドワーク
開催日時2017年11月5日
場所登呂遺跡公園〜周辺

歩いた、歩いた! 地形から見えてきた、登呂を選んだ理由。

2回目のテーマは「なぜこの場所に?フィールドワーク」。弥生の人たちはなぜこの場所に住んだのか?実際に歩いて、ここを選んだ理由を考えてみました。
講師は、静岡大学の篠原和大教授と、伊豆半島ジオパーク推進協議会の研究員、鈴木雄介さんです。台風のため1週間後の開催となりました。

まずは、登呂遺跡の敷地を抜けて、周辺の住宅街へ。「本当は登呂の水路はもっと広く東側まで広がっていた」と篠原教授。ぐるりと路地を歩きます。近くのこども園がある場所も遺跡の続きだった可能性があるのだとか。
静岡新聞社17階レストラン「Temboo」の一室へ。登呂遺跡から海を臨む景色を一望してみます。
鈴木さん「縄文の頃は高速道路ぐらいまで海だったと言われている。その頃の登呂は海沿いだった」
登呂遺跡に人が住む頃には海岸線は今とほぼ同じで、静岡新聞社の下、消防署のあたりも、登呂より前の時代の弥生時代の墓が発掘されています(鷹ノ道遺跡)。

石田街道を南に、再び住宅地へ。一本道でも微妙な勾配やボコボコがあるのが、歩いてみると分かります。
篠原先生「登呂遺跡の一部は軍需工場を作ろうとして土を掘った跡なので、ここが低くなっているのは、人工的な要因によるもの」
あちこちの家の玄関先には、地下水が出っ放しのところが。たまたまいらっしゃった家の人によると「昔は田んぼに使っていた。どんどん出て大変」。もともと水が豊富な地域だったもよう。すぐ近くには登呂の時代の森林跡も残っています。杉の木もあったらしい。

本原 令子

家に使った木はどこから運んできたんだろう?と思っていたけれど、意外と近くで調達できたのかも?

お昼休憩を挟み、午後は「どうしてこの土地に住み始めたのか?」を考えながら、海の方へ歩きます。鈴木さん「今の人は土地を作りかえることができるが、昔の人は自然を活かす暮らし方をしていた。それを学んでいきましょう」
登呂を背に一路、南へ。少し歩いたところから登呂を見ると、平坦なように見えてなだらかな坂になっています。南へゆるやかに登っていく感じ。敷地一、二丁目あたりまでは新しく整えられた住宅地ですが、鈴木さんが「ここから少し登山になります」と言った三丁目に入ると道や家の様子が一変します。
標高差を色分けした地図で見ると、明らかに高くなっている一帯。道は細く曲がりくねり、生垣のある家が多くなります。そして神社に到着。

鈴木雄介さん「登呂あたりは田んぼが多かったけれど、このエリアに入ると畑もありませんでしたか?」

土が違うことがその理由。少し高くなっているこのあたりは「浜堤」といって、安倍川の扇状地が土砂を運んできて海沿いにできた土地です。砂地なので作物が育てやすい。登呂から南の新しいエリアは水はけが悪いので、稲作に向いているとか。
古くからあるので、昔から人が住み、ここに住むための工夫として海からの風をよける生垣が多く残っています。神社もおそらく、古くからこの地にあるものでは、とのこと。
いったん海沿いに出た後、浜堤の西端で「白髭神社」を確認。ここより西は標高は低いものの、古くから住宅があることが地図で分かります。河川によってできた「自然堤防」があるので、水の近くにありながら、50㎝~1m高いのだとか。

住むには平らなところがいい、でも水害を考えると高いところがいい。ということで、生活に必要な水が出て少し高い平らなところ=登呂や浜提、自然堤防の近くを選んだのでは?

海が近くて漁ができ、稲作もでき、森林もあった。生きてくのに必要な水も豊富に湧き出していた。そんな豊かな弥生の登呂の様子と、洪水があっても戻ってきた理由が、少し分かった気がします。

40代男性「登呂の人たちは意外とリゾートな暮らしをしていたのかも?」

40代女性「学生の頃、地理は苦手だったけれど、実際に歩いてみると面白かった」

30代女性「登呂にしよう!って誰が言い出した?村長みたいな人もいなかったのに?」

本原 令子

洪水の後、同じ場所に家を建ててたらしい。もしかしたら柱を引っこ抜いて持っていった可能性も?意外とモバイルな暮らしだったのかも

登呂に帰着後、みんなで振り返りをしました。

とにかく歩いた(総歩行距離6km以上!)フィールドワーク。歩いて初めて見える景色、気付くこともたくさんありました。
(ライター:永野香里)